広島の原爆ドームと平和記念公園を歩いて感じたこと


以前から訪れたいと思っていた「原爆ドームと平和記念公園」。終戦記念日になると必ずテレビで紹介されていますが、どんな歴史があるのでしょうか。

何となくは知っているけど深くは知らない。そんな、私と同じような方のへ原爆ドームと平和記念公園の「歴史からアクセス方法」まで紹介します。

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原爆ドームを1周歩いて見えてきたもの

路面電車(広島電鉄)の「原爆ドーム前」で下車をすると、目の前に入り口が見えてきます。1996年に世界遺産に登録された原爆ドームですが、原爆投下時は「広島県産業奨励館」と呼ばれ、土木や材木などの統制会社の事務所として使用されていました。



原爆ドーム前の石碑に書かれていた全文です。

【原爆ドーム】
昭和20年8月6日、史上はじめての原子爆弾によって破壊された旧広島産業奨励館の残骸である。爆弾はこの建物のほぼ直上約600メートルの空中で爆発した。その1個の爆弾によって20万をこえる人々の生命が失われ、半径約2キロメートルに及ぶ市街地が廃墟と化した。この悲惨な事実を後世に伝え人類の戒めとするため、国の内外の平和を願う多数の人々の寄金によって補強工事を施し、これを永遠に保存する。
平成42年8月6日 広島市







原爆ドームは何度か「取り壊し」を検討されたと言われています。風化が進み、建物自体が危険だと言う理由。他にも、原爆投下時の苦しい記憶を思い出すので、取り壊して欲しいと言う意見もあったようです。

今では平和を訴えるシンボルとなっていますが、「二度とこのような悲劇が起こらないように」と戒めの願いを込め「負の世界遺産」とも言われています。


水を求めて多くの人が跳びこんだ「元安川」

原爆投下時の爆風は中心部で「100万℃」を超えていたと言われています。熱風により一瞬で亡くなった人々。中心部より少し離れていた事で、命を取り留めた人々。しかし、熱風により重度の火傷を負った多くの人々は、水を求めて川に飛び込み亡くなりました。


元安川では犠牲者を弔うため、毎年8月6日になると灯篭流しが行われます。灯篭にはそれぞれメッセージが書かれ、その数は1万以上にもなると言われています。

この灯篭流しは、どなたでも参加できます。8月6日の夕方頃から、原爆ドームの対岸に受付が設置されるので、灯篭を購入しメッセージを書いてみてはいかがでしょう。



原爆ドームの周辺には「中国四国土木出張所職員殉職碑」「広島県地方木材統制㈱慰霊碑」「原民喜詩碑」「動員学徒慰霊塔」が建てられ、折り鶴や花束が供えられていました。

また、原爆ドームの近くでは、ボランティアガイドをしている三登さんが手作りした資料が、誰でも読めるよう置かれていました。

フォルダーの中には「日本語・英語・中国語・スペイン語」などで、原爆投下時の様子が書かれています。世界各国から来ている人達へ、被爆者本人の言葉として、核兵器の恐ろしさを伝えています。

平和記念公園では毎日祈りが捧げられています

原爆ドームの対岸に平和記念公園があります。毎年、8月6日に平和記念式典が行われ、原爆が投下された「8時15分」に黙とうが行われます。

「原爆死没者慰霊碑」はテレビで紹介されることが多く、映像で見た事がある人が多いのではないでしょうか。


原爆ドームから「元安橋」や「平和大橋」を渡ると公園に到着します。1949年8月に公布された「広島平和記念都市建設法」に基づいて整備され、公園の面積は原爆ドームの区域も含めると122,100平方メートルの大きさがあります。



「原爆ドーム」の直線上に「原爆死没者慰霊碑」が設置されています。その間には「平和の灯」が建設され、反核と恒久平和実現まで燃やし続けられています。

原爆死没者慰霊碑には沢山の献花があり、その前で犠牲者の冥福を祈り、多くの人が手を合わせていました。

碑文には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と言葉が刻まれています。この言葉が守られる事を祈るばかりです。


「原爆の子の像」には平和を願い、折り鶴が捧げられています。

「原爆の子の像」には、今なお世界中から千羽鶴が届けられています。もともと千羽鶴は病気回復の願いを込めて1,000羽の折り鶴り、病気の人へ贈られるものと思っていました。

今は平和のシンボルとして、日本や世界中の人々が折り鶴を捧げています。



「原爆の子の像」のモデルとされているんが、2歳で被爆し12歳で亜急性リンパ性白血病で亡くなった佐々木禎子さんです。

佐々木禎子の死をきっかけに、同級生や原爆で亡くなった子供達の霊を慰めるため、全国から募金が集められ建設されました。

佐々木禎子さんは病気の回復を願い、薬の包み紙で1,000羽以上の折り鶴を折りました。しかし、願いは叶えられず12歳と言う短い人生を終えました。

被爆して9年後に突然、白血病と診断され闘病のすえ亡くなった禎子さん。毎日どんな気持ちで折り鶴を折っていたのでしょうか。それも薬の包み紙で。

原爆が恐ろしいのは一瞬で大勢の命を奪い、さらに数年~数十年かけてジワジワと命を奪っていくことです。


見ているだけで涙が出る「広島平和記念資料館」

館内には戦争を体験し、必死に生きて来た人の言葉が「写真や展示品」で聞く事が出来ました。

また、原爆投下時の様子を語る人達の映像が、テレビに映し出されていました。英語の字幕が表示されていたので、多くの外国人も食い入るように見ています。




広い館内で見たもの全てが強烈なインパクトで、いろい考えさせられました。言いたいことは沢山ありますが、今いえる事は「とりあえず1度訪れて下さい!」

尚、広島平和記念資料館は「本館・東館」でリニューアル工事を、入れ替わりで行います。工事予定は下記の通りですが、詳しくは広島平和記念資料館のホームページを確認して下さい。

【工事予定日/下記の期間は観覧できません】
○東館は平成28年春まで
○本館は平成28年春から平成30年春まで

元安橋にあるレストハウスは「観光案内所兼休憩所」

元安橋の直ぐ近くにある「広島市平和記念公園レストハウス」には「売店・観光案内所・無料休憩所」があり、お土産品なども多少販売されていました。

また、外国語の「観光ガイドブック」が無料で用意されているので、必要な方は事前に貰いましょう。




こちらの建物は1929年に竣工され、1945年の原爆投下により被爆しています。原爆の中心となった中島地区で、ただ一つ残った戦前の建物です。

当時は「燃料会館」の組合の事務所として使用されていました。原爆の中心地だったこともあり、朝礼を済ませた多くの組合員が「熱線・爆風」で亡くなっています。

建物自体はキレイになり当時の面影はありません。しかし、あの原爆投下に原爆ドームと同じく残った建物なんですよね。そう聞くと、何だか凄い建物に見えてきました。


平和記念公園及び周辺には50を超える「記念碑・記念建造物」があります。

今回、平和記念公園のごく一部を紹介しましたが、「公園内・その周辺」には50を超える「記念碑・記念建造物」があります。

全てを巡るのは時間が必要ですが、広島へ原子爆弾が投下された(8/6)、長崎に原子爆弾が投下された(8/9)、そして終戦記念日(8/15)に戦争の事を考える日になればと思います。

今回、原爆ドームや平和記念公園を訪れ一番心に残った事は、原子爆弾が投下され熱風によって全身大火傷を負い、それでも数日掛けて自宅へ戻って来た人々の話しでした。

着ていた洋服も燃え、皮膚も垂れ下がり、それでも自宅へ歩いて向かったひとびと。重度の火傷を負い、自分は助からないかもしれない、それでも「母親・父親・子供・孫・兄弟・姉妹」の事が心配で、火傷した体で歩き続けたのではないでしょうか。

家族の顔を見て安心して亡くなった人は、どれくらい居たのでしょうか。戻る家が見つからず、家族にも会えず、不安のまま亡くなった人の方が多かったと思います。

戦後72年経っているのに、世界中から戦争がなくなりません。核兵器を保有している国もあるため、また同じ苦しみが無いとは限りません。当時の写真や経験者の言葉を聞くと、決して使ってはいけない核兵器だと分かるのに、いつまでこの状態が続くのでしょうか。

原爆ドームと平和記念公園の詳細とマップ

原爆ドーム&平和公園の紹介
原爆ドーム広島県広島市中区大手町
平和記念公園広島県広島市中区中島町
アクセス原爆ドームまでは路面電車の「原爆ドーム前」が一番近くに停車します。バスを利用する場合は「紙屋町」「市民球場前」からも歩いて来ることができます。

広島空港から直行する場合は、空港リムジンバスの広島バスセンター行きに乗り「広島バスセンター」下車。5分ほど歩くと到着します。


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